その中でイケダハヤトさんの書いている記事が論理的でない点が多いので好きではないと書いたのですが、イケダハヤトさんが「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えてという記事を出されたので、この記事を例にどういった点が論理的でないと感じるのか紹介してみたいと思います。
動機となっているのが、論理的でない思考展開の中で議論を重ねても建設的な方向に進まず発散していってしまうんですよね。そこがもったいないなーと常々感じています。
「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えて
上記の記事でイケダさんは元切込体長の攻撃性を
②法的には犯罪ではないが、やまもとさんの正義感に反する行為を裁く(安藤美冬さんのマルチ商法関与)と紹介しているのですが、その後で
まず、②は「私刑」そのものです。法的には問題ないけど、俺が許せないから裁いてやる、という論理は危険です。と書いています。
イケダさん自身が「やまもとさんの行為は正義感に反する行為を裁く」と書いているようにやまもとさんが行っているのは、(安藤さん)個人に対してではなく彼女の行為に対するものであって個人攻撃ではありません。
そしてこの行為がなぜ私刑にあたるのか、というのが論理的に説明されていません。
「法的には問題ないけど、俺が許せないから裁いてやる、という論理は危険」というのはその通り。
でもなぜ、②が「私刑」そのものなのだとイケダさんは考えるのか
個人がブログの中で他者の行為を批判することがなぜ「裁く」という行為にあたるのか。
上記の例でいえば、安藤さんのほうで異論があるのであれば山本さんに対して反論することができるわけですし、そこには裁くもの、裁かれるものという一方的な関係はないかと思います。
続けて、イケダさんは、
③単純に突っ込みたいからユーモラスに絡む(池田信夫さん、ハックルベリーさん)
③については、ぼくは相変わらず賛同しません。どれだけ面白かろうが、見せかけの「愛」があろうが、それは子どものいじめと変わりません。何より、人々の攻撃性を煽るという意味において、倫理的な問題があります。と書いています。この考えは理解できます。
しかし当のイケダさんが、元切込体長のやまもとさんを、「イナゴの王」と論じるのは上記でイケダさんが指摘しているユーモラスに絡むという行為そのものではないでしょうか。
いじめられているのだからいじめ返して良いという論理なのか。
イケダさんがユーモラスに絡むのは良くないと主張しているのに、ユーモラスに絡み返しているのは矛盾していると感じます。
もしイケダさんがユーモラスに絡むという行為がダークサイドに落ちるということだと考えるのであれば、ダークサイドを使わずに論じるべきでしょう。
最後に、イケダさんは記事の中で、
1.イケダさんが感じる山本さんの攻撃性を3つに分析
2.それぞれの分析について言及
3.発信者であることの倫理性について
4.発信者である以上抱えることになる倫理的問題について
5.誰もが発信者であるべき
という順序で論じています。
ここで4番から5番への議論の展開がひどく唐突です。
記事を読んでいると、この筆者は何を言いたかったのだろう、と感じる部分です。
この記事が、山本さんに対する攻撃性とその問題点について書かれたものであるとしたら、1から4までの文脈は理解できます。
5番は単独で良い事を書いていると思います。
ただ4番から5番へと議論が展開する理由がわかりません。
また5番で
ぼくとやまもとさんが示しているように、自分の言いたいことを言って、誰かを傷つけようが、恥を書こうが、死ぬことはありません。とイケダさんが書いていますが、その前に「ユーモラスに絡むのは良くない」と論じておきながら、「言いたいことを言って、誰かを傷つけようがやむを得ない」とも書いているのです。
この二つは完全に矛盾しているのではないかと思います。
ということでイケダハヤトさんの記事には部分部分で賛同できる点があるのですが、もう少し論理的に整理して欲しいなーと思っています。
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