イケダハヤトさんが、高知県に移住するという話がきっかけで東京で住むことや地方に移住することについて話題が盛り上がっていますね。
イケダハヤトは高知県に移住します。ブログタイトルを変えました→
東京で消耗するのは郊外だと思う。みんな千代田区に住もうぜ!
個人的にはどちらにも正解はあるし、ないとも思っています。
千代田区ではないですが、文京区にも住んでいたことがありますし、西新宿五丁目も今のように再開発が進む前に住んでいました。文京区は大手町にもすぐに出る事ができ、小さな一軒家を10万円程でかりてシェアしていました。
経済的なメリットを考えると、東京でも穴場であったりいい場所はたくさんあると思います。
い私は、嵐主演映画「ピカンチ」で「東京だけどどこか東京じゃない」と紹介された八塩団地ならぬ八潮団地に住んでいて、ここはコストパフォーマンス的にとても気に入っています。恵比寿の二人暮らし物件の最低価格帯よりも少し低いくらいの家賃で部屋の広さが倍になりました。
UR都市機構:品川八潮パークタウン
徒歩数分のところにスーパーもあり、(一時期ダイエーが閉店しましたが、他のスーパーが数ヶ月後に跡地に開店しました)緑が多いなど周辺の自然環境が良く、建物と建物の間が離れているため、窓の外の視線や採光に悩まされることがなく、品川と羽田空港のどちらにも20分で出れるので、出張が多かったり、旅行をすることが多い人は新幹線や飛行場へのアクセスが良くてとても便利です。
逆に、残念なところが、徒歩すぐのところに手軽な喫茶店がないところ。
ここは逆に、恵比寿に住んでいたときが最高で、深夜でも営業している良いカフェがたくさんあり、またその時間帯だと人も少ないということもあってセカンドプレイスとして自宅の部屋がわりに仕事をしたりするのには最高でした。
やはり家賃が高いところにはそれなりに理由がありますね。
さて、イケダハヤトさんが、高知に移り住む理由についても書いていますが、本人も一番目の理由として書かれているように「 端から見て面白いじゃないですか。ぼくが高知行ったら。」、移住することでのメリット、今後のネタを得るという意味でとても大きいと思います。
イケダさんは「まだ東京で消耗しているの?」とブログのタイトルも変えていますが、イケダさんが東京をすでに消費してしまったということだと思うんですよね。
東京にいるからこそ得られる人脈や、ネタ。そうしたものをあらかた消費してしまったタイミングなのかな、と思っています。例えば、大企業で働くことの不合理性や、スタートアップで働くという選択肢、そして20代での独立。
こうしたネタは、もちろん地方にいても発信できるのでしょうが、東京にいるからこそ語ることに意味があるネタだったりします。
そもそもスタートアップがほとんど周辺にはない地方都市。大企業で働くべきか、スタートアップで働くべきか、といった議論がそもそも成立しません。
また20代で独立、という話も農家を継ぐことが辺り前の場所だとこのテーマに関する読者の捉え方も全然変わってきますよね。
そうした大都市で生活することにまつわるネタの多くを消費した今、地方で住む事によって得られるネタや話題は、東京にいることではどうしても得られない一番の機会だと思います。今後はマイルドヤンキーにまつわる話題がでてきたりするのでしょうか。
なので、東京に住むことが消耗することか否かよりも、イケダさんが東京を消費してしまったという話だと思っています。
できれば、今後は季節ごとに焼き畑農法的に地方を写り住んでほしいですねw
春は京都、夏は群馬や北海道、秋は金沢、冬は福岡や札幌とかいかがでしょう。
また那覇の駐車場にかつては小型自動車のスマートを常駐させて東京と沖縄の間を往復したり、バルセロナに移住した尊敬すべき偉大な大先輩、高城剛さんにも改めてスポットライトがもっとあたるといいなぁーと思っています。
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Tuesday, June 3, 2014
Monday, April 15, 2013
そうだね、でも別に減るものじゃないし、挨拶はしたほうがいいと思うよ(・∀・)ニコッ
週があけてイケダハヤトさんがとても筋道だった書き方をされていて少し戸惑っています。
私も下記のようなエントリを書いてみたのですが、
イケダハヤトさんの記事に感じる論理的でない点 #ブログ論争
山本さんとの対談を通じて何か変化があったのかもしれないですね。
イケダさんの
BLOGOS:たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?
という記事について皆さんがいろいろと議論を交わしているのを楽しく拝見させて頂いています。
今回のイケダさんの意見はいろいろと共感できるところがありますね。私も帰国子女ということもあり挨拶は苦手なほうですし。Facebookのタイムライン上でもいろいろな意見がみられます。
そんな中、ある投稿をみて、ちょっとガツンとやられてしまいました。
イケダさんのように「挨拶なんてできなくてもいいよね?」とN氏(仮称)が当時の彼女に話したところ、「そうだね、でも別に減るものじゃないし、挨拶はしたほうがいいと思うよ(・∀・)ニコッ!」と言われて返す言葉がなかったというエピソードが紹介されていました。
ご本人から、「ブログで紹介してもOK」ということでしたのでここに書いてみましたが、
その元カノ`・ω・´)カッコヨス。
さらっとそんな風に話せる人に憧れます。
年齢関係なくオトナ力の高い素敵な人には勝てないですね・・・
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私も下記のようなエントリを書いてみたのですが、
イケダハヤトさんの記事に感じる論理的でない点 #ブログ論争
山本さんとの対談を通じて何か変化があったのかもしれないですね。
イケダさんの
BLOGOS:たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?
という記事について皆さんがいろいろと議論を交わしているのを楽しく拝見させて頂いています。
今回のイケダさんの意見はいろいろと共感できるところがありますね。私も帰国子女ということもあり挨拶は苦手なほうですし。Facebookのタイムライン上でもいろいろな意見がみられます。
そんな中、ある投稿をみて、ちょっとガツンとやられてしまいました。
イケダさんのように「挨拶なんてできなくてもいいよね?」とN氏(仮称)が当時の彼女に話したところ、「そうだね、でも別に減るものじゃないし、挨拶はしたほうがいいと思うよ(・∀・)ニコッ!」と言われて返す言葉がなかったというエピソードが紹介されていました。
ご本人から、「ブログで紹介してもOK」ということでしたのでここに書いてみましたが、
その元カノ`・ω・´)カッコヨス。
さらっとそんな風に話せる人に憧れます。
年齢関係なくオトナ力の高い素敵な人には勝てないですね・・・
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Saturday, April 13, 2013
イケダハヤトさんの記事に感じる論理的でない点 #ブログ論争
昨日、遅れてきた60年代イケダハヤト #ブログ論争という記事を書いてみました。
その中でイケダハヤトさんの書いている記事が論理的でない点が多いので好きではないと書いたのですが、イケダハヤトさんが「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えてという記事を出されたので、この記事を例にどういった点が論理的でないと感じるのか紹介してみたいと思います。
動機となっているのが、論理的でない思考展開の中で議論を重ねても建設的な方向に進まず発散していってしまうんですよね。そこがもったいないなーと常々感じています。
「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えて
上記の記事でイケダさんは元切込体長の攻撃性を
イケダさん自身が「やまもとさんの行為は正義感に反する行為を裁く」と書いているようにやまもとさんが行っているのは、(安藤さん)個人に対してではなく彼女の行為に対するものであって個人攻撃ではありません。
そしてこの行為がなぜ私刑にあたるのか、というのが論理的に説明されていません。
「法的には問題ないけど、俺が許せないから裁いてやる、という論理は危険」というのはその通り。
でもなぜ、②が「私刑」そのものなのだとイケダさんは考えるのか
個人がブログの中で他者の行為を批判することがなぜ「裁く」という行為にあたるのか。
上記の例でいえば、安藤さんのほうで異論があるのであれば山本さんに対して反論することができるわけですし、そこには裁くもの、裁かれるものという一方的な関係はないかと思います。
続けて、イケダさんは、
しかし当のイケダさんが、元切込体長のやまもとさんを、「イナゴの王」と論じるのは上記でイケダさんが指摘しているユーモラスに絡むという行為そのものではないでしょうか。
いじめられているのだからいじめ返して良いという論理なのか。
イケダさんがユーモラスに絡むのは良くないと主張しているのに、ユーモラスに絡み返しているのは矛盾していると感じます。
もしイケダさんがユーモラスに絡むという行為がダークサイドに落ちるということだと考えるのであれば、ダークサイドを使わずに論じるべきでしょう。
最後に、イケダさんは記事の中で、
1.イケダさんが感じる山本さんの攻撃性を3つに分析
2.それぞれの分析について言及
3.発信者であることの倫理性について
4.発信者である以上抱えることになる倫理的問題について
5.誰もが発信者であるべき
という順序で論じています。
ここで4番から5番への議論の展開がひどく唐突です。
記事を読んでいると、この筆者は何を言いたかったのだろう、と感じる部分です。
この記事が、山本さんに対する攻撃性とその問題点について書かれたものであるとしたら、1から4までの文脈は理解できます。
5番は単独で良い事を書いていると思います。
ただ4番から5番へと議論が展開する理由がわかりません。
また5番で
この二つは完全に矛盾しているのではないかと思います。
ということでイケダハヤトさんの記事には部分部分で賛同できる点があるのですが、もう少し論理的に整理して欲しいなーと思っています。
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その中でイケダハヤトさんの書いている記事が論理的でない点が多いので好きではないと書いたのですが、イケダハヤトさんが「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えてという記事を出されたので、この記事を例にどういった点が論理的でないと感じるのか紹介してみたいと思います。
動機となっているのが、論理的でない思考展開の中で議論を重ねても建設的な方向に進まず発散していってしまうんですよね。そこがもったいないなーと常々感じています。
「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えて
上記の記事でイケダさんは元切込体長の攻撃性を
②法的には犯罪ではないが、やまもとさんの正義感に反する行為を裁く(安藤美冬さんのマルチ商法関与)と紹介しているのですが、その後で
まず、②は「私刑」そのものです。法的には問題ないけど、俺が許せないから裁いてやる、という論理は危険です。と書いています。
イケダさん自身が「やまもとさんの行為は正義感に反する行為を裁く」と書いているようにやまもとさんが行っているのは、(安藤さん)個人に対してではなく彼女の行為に対するものであって個人攻撃ではありません。
そしてこの行為がなぜ私刑にあたるのか、というのが論理的に説明されていません。
「法的には問題ないけど、俺が許せないから裁いてやる、という論理は危険」というのはその通り。
でもなぜ、②が「私刑」そのものなのだとイケダさんは考えるのか
個人がブログの中で他者の行為を批判することがなぜ「裁く」という行為にあたるのか。
上記の例でいえば、安藤さんのほうで異論があるのであれば山本さんに対して反論することができるわけですし、そこには裁くもの、裁かれるものという一方的な関係はないかと思います。
続けて、イケダさんは、
③単純に突っ込みたいからユーモラスに絡む(池田信夫さん、ハックルベリーさん)
③については、ぼくは相変わらず賛同しません。どれだけ面白かろうが、見せかけの「愛」があろうが、それは子どものいじめと変わりません。何より、人々の攻撃性を煽るという意味において、倫理的な問題があります。と書いています。この考えは理解できます。
しかし当のイケダさんが、元切込体長のやまもとさんを、「イナゴの王」と論じるのは上記でイケダさんが指摘しているユーモラスに絡むという行為そのものではないでしょうか。
いじめられているのだからいじめ返して良いという論理なのか。
イケダさんがユーモラスに絡むのは良くないと主張しているのに、ユーモラスに絡み返しているのは矛盾していると感じます。
もしイケダさんがユーモラスに絡むという行為がダークサイドに落ちるということだと考えるのであれば、ダークサイドを使わずに論じるべきでしょう。
最後に、イケダさんは記事の中で、
1.イケダさんが感じる山本さんの攻撃性を3つに分析
2.それぞれの分析について言及
3.発信者であることの倫理性について
4.発信者である以上抱えることになる倫理的問題について
5.誰もが発信者であるべき
という順序で論じています。
ここで4番から5番への議論の展開がひどく唐突です。
記事を読んでいると、この筆者は何を言いたかったのだろう、と感じる部分です。
この記事が、山本さんに対する攻撃性とその問題点について書かれたものであるとしたら、1から4までの文脈は理解できます。
5番は単独で良い事を書いていると思います。
ただ4番から5番へと議論が展開する理由がわかりません。
また5番で
ぼくとやまもとさんが示しているように、自分の言いたいことを言って、誰かを傷つけようが、恥を書こうが、死ぬことはありません。とイケダさんが書いていますが、その前に「ユーモラスに絡むのは良くない」と論じておきながら、「言いたいことを言って、誰かを傷つけようがやむを得ない」とも書いているのです。
この二つは完全に矛盾しているのではないかと思います。
ということでイケダハヤトさんの記事には部分部分で賛同できる点があるのですが、もう少し論理的に整理して欲しいなーと思っています。
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遅れてきた60年代イケダハヤト #ブログ論争
先日行われたやまもといちろう x イケダハヤトのトークイベントを前半はニコニコ動画とUstream,後半は後日Naverまとめのログでチェックさせて頂きました。
やまもといちろう ×イケダハヤトの #ブログ論争 書き起こし
やまもとさんの一方的なラッシュだったものの、いくら打たれても倒れず打ち返しもしないイケダハヤト、という試合内容で結果ドローといったもの。
そこでこの期に乗じて個人的に感じていたことなどを書き綴ってみたいと思います。
まずイケダハヤトさんにはお会いしたことがないので、どういった方か存じていないのですがイケダハヤトさんの文章は率直に言えば僕はきらいです。
理由は知的でないし稚拙だから。
何が稚拙だと感じるかというと、イケダハヤトさんのブログ記事は意見としては共感できることが含まれていたりするのですが論理展開がおかしいことが多い。
例えば、AというものとBというものがあってこの両者を比較するときに、Aはピンキリのピンを例としてあげ、Bはピンキリのキリを例として取り上げて比べているといった具合です。ノマドのピンであるプロブロガーとサラリーマンのキリである社畜を対比したり。
またイケダさんの仮説を支えるものとしてあげられている事例が矛盾を抱える物であったり、ロジックとしておかしいと感じるものが多くて読んでいてイライラすることが多いのです。
読みながら同意するよりも、思わずツッコミを入れざるおえない感じ。
全く同意できないのではなくて、「ふむふむ、そういう意見なのか」と読んでいるところに、「それとこれを混ぜるとそもそも前提の意見がおかしくなってこないか?」となってイライラ。
事実あっての仮説ではなく、仮説あっての事実をピックアップされているように思える記事も多い。このあたりは「思いついたままに書いていく」というイケダハヤトメソッドの副作用なのかも。イケダハヤトさんの著作は読んでいないので、著作のほうでは違った感想を持つかもしれません。
またイケダさんは記事ごとにその都度自説を主張するための意見を展開されているのですが、イケダハヤトさんの書いた記事同士で意見がひどく矛盾していることも多い。
ノマドを礼賛しながら、不安定な仕事をしているノマドと定職を持つ奥さんという組み合わせは最高だーという主張が同じ口から発せられていたりするので、なんじゃそりゃー、となるわけです。
余談ですが、イケダハヤトさんは個人攻撃の批判は良くないと論じていますが、イケダハヤトさん個人を批判している人は少数でイケダハヤトさんの文章や、考え方についてここはおかしいんじゃないか、と批判をしている人が大多数なんじゃないかなと思っています。個人批判ではなく、あくまでも批判されているのは師の考え方や文書だと思うのです。
村上春樹が嫌いと書いている人は個人としての村上春樹が嫌いなのではなく、村上春樹の著作が嫌いなのと同じように。
そんな風に個人的には捉えているイケダハヤトさんの記事ですが、なぜこれだけ耳目を集めて取り上げられるのかな、と疑問に感じていました。
煽りマーケティングがうまくいっているから?
マイケル・サンデル教授の授業で、あきらかに分が悪い側の意見を主張する人がいないとき、展開する意見が稚拙でもそこで手を挙げた人が指名され、おもいっきり発言する機会が与えられるのを見てズルいなー感じるのと同じようなものかな、とも考えたり。
そんなことをブログ論争について語っているブログを眺めて考えていたときに、表題のフレーズが頭に浮かんできました。
遅れてきた60年代イケダハヤト
社会への復讐を公言しているイケダハヤトさんですが、この言葉をきいていて何かとても手垢がついた言葉のように感じていました。
「遅れてきた60年代」というフレーズが頭に浮かんだときに、その言葉が全てを説明してくれたような感じがしました。
反社会、反体制、独立独歩、フリーダム、自由、既存の価値観の否定、若者による社会の否定。
こういった主張は60年代に起こったヒッピームーブメントそのもので、いまのイケダハヤトさんの主張そのものではないでしょうか。(僕も直接は知らないけれど。同じイケダ姓の池田信夫さん世代かな)
そう考えたときに、イケダハヤトさんのブログが良くも悪くもなぜこれだけ取り上げられているのか理解できたような気がしました。
それにしてもブログって、本当にいいですね。
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やまもといちろう ×イケダハヤトの #ブログ論争 書き起こし
やまもとさんの一方的なラッシュだったものの、いくら打たれても倒れず打ち返しもしないイケダハヤト、という試合内容で結果ドローといったもの。
そこでこの期に乗じて個人的に感じていたことなどを書き綴ってみたいと思います。
まずイケダハヤトさんにはお会いしたことがないので、どういった方か存じていないのですがイケダハヤトさんの文章は率直に言えば僕はきらいです。
理由は知的でないし稚拙だから。
何が稚拙だと感じるかというと、イケダハヤトさんのブログ記事は意見としては共感できることが含まれていたりするのですが論理展開がおかしいことが多い。
例えば、AというものとBというものがあってこの両者を比較するときに、Aはピンキリのピンを例としてあげ、Bはピンキリのキリを例として取り上げて比べているといった具合です。ノマドのピンであるプロブロガーとサラリーマンのキリである社畜を対比したり。
またイケダさんの仮説を支えるものとしてあげられている事例が矛盾を抱える物であったり、ロジックとしておかしいと感じるものが多くて読んでいてイライラすることが多いのです。
読みながら同意するよりも、思わずツッコミを入れざるおえない感じ。
全く同意できないのではなくて、「ふむふむ、そういう意見なのか」と読んでいるところに、「それとこれを混ぜるとそもそも前提の意見がおかしくなってこないか?」となってイライラ。
事実あっての仮説ではなく、仮説あっての事実をピックアップされているように思える記事も多い。このあたりは「思いついたままに書いていく」というイケダハヤトメソッドの副作用なのかも。イケダハヤトさんの著作は読んでいないので、著作のほうでは違った感想を持つかもしれません。
またイケダさんは記事ごとにその都度自説を主張するための意見を展開されているのですが、イケダハヤトさんの書いた記事同士で意見がひどく矛盾していることも多い。
ノマドを礼賛しながら、不安定な仕事をしているノマドと定職を持つ奥さんという組み合わせは最高だーという主張が同じ口から発せられていたりするので、なんじゃそりゃー、となるわけです。
余談ですが、イケダハヤトさんは個人攻撃の批判は良くないと論じていますが、イケダハヤトさん個人を批判している人は少数でイケダハヤトさんの文章や、考え方についてここはおかしいんじゃないか、と批判をしている人が大多数なんじゃないかなと思っています。個人批判ではなく、あくまでも批判されているのは師の考え方や文書だと思うのです。
村上春樹が嫌いと書いている人は個人としての村上春樹が嫌いなのではなく、村上春樹の著作が嫌いなのと同じように。
そんな風に個人的には捉えているイケダハヤトさんの記事ですが、なぜこれだけ耳目を集めて取り上げられるのかな、と疑問に感じていました。
煽りマーケティングがうまくいっているから?
マイケル・サンデル教授の授業で、あきらかに分が悪い側の意見を主張する人がいないとき、展開する意見が稚拙でもそこで手を挙げた人が指名され、おもいっきり発言する機会が与えられるのを見てズルいなー感じるのと同じようなものかな、とも考えたり。
そんなことをブログ論争について語っているブログを眺めて考えていたときに、表題のフレーズが頭に浮かんできました。
遅れてきた60年代イケダハヤト
社会への復讐を公言しているイケダハヤトさんですが、この言葉をきいていて何かとても手垢がついた言葉のように感じていました。
「遅れてきた60年代」というフレーズが頭に浮かんだときに、その言葉が全てを説明してくれたような感じがしました。
反社会、反体制、独立独歩、フリーダム、自由、既存の価値観の否定、若者による社会の否定。
こういった主張は60年代に起こったヒッピームーブメントそのもので、いまのイケダハヤトさんの主張そのものではないでしょうか。(僕も直接は知らないけれど。同じイケダ姓の池田信夫さん世代かな)
そう考えたときに、イケダハヤトさんのブログが良くも悪くもなぜこれだけ取り上げられているのか理解できたような気がしました。
それにしてもブログって、本当にいいですね。
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